「僕はなぜ小屋で暮らすようになったか」を読んで
興味はあるが自分で買うには1600円ちょいはちょっとあれなので八戸市図書館にリクエストしたら無事に図書館で購入され借りることが出来たBライフの寝太郎さんの著書「僕はなぜ小屋で暮らすようになったか」を読みました。
だもんで感想を…と思ったのですが…
なんて言いますかね…
これ、だいぶ人によって評価が別れる本ですね。
寝太郎さんはこれ以前にも2冊本を書かれています。
最初の本「Bライフ 10万円で家を建てて生活する 」は、現在サバもドメインも有効だが本人がクローズド画面をUPしている状態のBライフ研究所の内容を紙面にしたような本で、ある意味小さな家を自作して暮らしたい願望がある人向けの本だった。
2冊めの「スモールハウス 3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方」は、海外などのスモールハウスムーブメントと言いますか、スモールハウスで暮らす人達を紹介するような内容の本。これもある意味スモールハウスに興味がある人向けの本。
でも本著はこれまでと全く別物で、おそらくBライフやスモールハウスを読んでこの本を手にした人にしてみれば、満足いかないどころか不満しか残らないのでしょうね。
だってこれ、ある意味普通の人の中身をぶち撒けただけの本だもの。
だいぶ独特な風味はあるんですよね。考え方とか感じ方とか、そういう部分はけっこう独特で、理解しようとすれば難解かも知れない。
でもそれに対する思考迷図が割りとありがちと言いますか…表現難しいな…いわゆるハリネズミのジレンマ、みたいな感じに思えるんですよ。まぁ現実のハリネズミにはそんなジレンマありませんけど。
人と関わりたくないらしいのに、でも行動は人と関わる行動を取っている。出版然りブログ然りTwitter然り。
でもその結果絡んでくる人が出てくるのは当然で、でもそれが嫌で子供っぽい対応をして、やっぱり嫌だと思ってしまう。
なら出版もしなければいいし、ブログもTwitterもやらねばいいのだが、でもそれをしちゃう。
そんなんだから金のためにやっていると思われるのもある意味当然で、旧ブログタイトルなども「そりゃ通年で小屋に暮らしていると思うでしょ」って感じなのに気付かないらしく、もはや確信犯ではないかと思わずにはいられないわけなんですが…
とこう書いているとツマラナイ本という結論に至るのが自然なのですが、でもそのある意味での一貫性のなさと矛盾しながら同居するある種の一貫性の存在、そこに妙に納得する部分があったんですよ、おいらが読むには。
それが何かといいますと、私が以前から感じていたオリジナルBライフの提唱者たる寝太郎さんと、自分こそBライファーだと声高に言う人達のBライフとの剥離、それへの答えなんですよ。
元々のBライフって、小屋暮らしだけじゃないんですよね。定義的には
「1.ベーシックライフ(Basic)」「2.ベイビッシュライフ(Babyish)」「3.ぼっちライフ(Bocchi)」「4.B級ライフ(B-Grade)」「5.ビギニングライフ(Beginning)」「6.ボヘミアンライフ(Bohemian)」とか6つぐらいこじつけていますが、要するに人がどう思おうと自分で最低限の生を守れるために小屋暮らししたり、テント暮らししたり、放浪したり、ってそこいらまで含んでがBライフなんだと思うんですよ。
言うなればキャッチーな「Bライフ」という単語に対しての現代における一般人へのエポックメイキング的な部分が小屋暮らしなわけだけれども(ブログ名や本タイトルにも「10万円で~」って使っているので、意識していなくても本人もそうだと認めている部分よね)、でも小屋暮らしはあくまで寝太郎さんのBライフを実践するためのアイテムの1つに過ぎず、Bライフ=小屋暮らしは成り立たないと、そういう理解です。
でも自称Bライファーって違うよね。
Bライフって小屋作ってみんなで楽しんでフィーバー、っていう曲解、これですよ。
その人により程度の差はあれど、なんか小屋がアイテムから目的に昇格しちゃっている。一般に言うところと目的と手段が違うじゃん!みたいな状態。
それらに対して私は差異を感じており、Bライフはオリジナルの寝太郎さんの提唱するものだけでよく、それ以外の人はちょっと違うことをちゃんと主張して欲しいと思ったりもするわけです。「Bライフかつや流」とか「Bライフミニマリストナス派」とかね。
その根本が小屋暮らしへ取り組む根本の違いにあるのだなと改めて思って納得した次第でして。
他方、寝太郎さんはブログやTwitter上で、Bライフという言葉の発明者とは言えない言動も繰り返しています。
「人それぞれのBライフがある」とか言い出すのはまだいいとして、あまつさえ「Bライフだとややこしくなりそうな」とか言っちゃう次第でして…Bライフ研究所を自ら更新して閉鎖状態にしたことや、研究所のコンテンツをブログに移行したのはうれしいがそれを探すことが困難な状態にしていることなども鑑みると、やはりBライフという言葉そのものを抹殺しようとしているかのようにも受け取れる。
そんな行動に「何故?」と思うことが何度も何度もあった。
でもきっと自分で作った「Bライフ」言葉ですら寝太郎さんが生きづらい要因なのかなと、本著を読んで思うに至りました。
この本は、小屋暮らしなりBライフなりに興味を持っている人には愚書と受け取られても不思議ではないと思う。
でもそれはこの本や著者への勝手な思い込みによって生じるものである。
この本を楽しめる人は自分にはない生き方、あるいは考え方を楽しめるような人ではないかと思われるが、問題は読んだ限りでは実は寝太郎さんはちょっと変な人ぐらいであって、本当の変人、本当の狂人ではないことと思われる。
本文中で寝太郎さん自身が「自分はホンモノではなくニセモノ」という旨を述べているが、それこそが本人的にも傍観者的にも真実なのではなかろうか?