善悪よりも一貫性

私事で恐縮ではございますが…とは思いません。だっておらのブログだもん。

ということで、なかなか理解されない私の判断基準についてを勝手に話します。

私は結構善悪はどうでもいいんですよ。判断基準としては。
まぁ悪いことをされると困りますが…特に私向けにされると面倒くさいし、迂闊に絡んでくるとおら激しく咬み付くしで色んな意味で面倒くさい。
でも悪人が悪いことするのって、ある意味納得はいくんですよ。だって一貫性があるでしょ。

むしろ一貫性がないと、おらは激しく気になるんです。

某K氏の話。
お金をかけない節約生活、とか言いながら安くはない商品へのアフィリエイトを貼った上で「これはいいですよー買って損はないですよー」みたいなレポートごっこする。それ、節約じゃないし、ネットには自作できるレシピあるからそれで作ればコスト100分の1以下だってば、節約しろ!
ほら、一貫性がない。

某なんとかハックの話。
「相互リンクお願いします」とか言いながらリンク貼ってない。「スパム対策云々」言いながらスパムコメントしまくる。「貴サイトすごい」みたいな同じ文面のコメントを大量にばらまいている。
ほら一貫性の欠片もない…いや、スパムをしまくっているという一貫性はあるのか…でもそんな一貫性は要らない。

某消失した神社関係の話。
八戸市が全面的に協力みたいなこと言っていたのに「書類ダセー出さなきゃ建てるなー」で神社関係の人困惑。
これ、八戸市に一貫性がない。というか足並み揃ってないのではないかい?
でも神社側の人が「仕方ないからやること変えます」っていうのは、やること自体は変化していても方向性としては同じで一貫性がある。
言い方は良くないかも知れんが、神社再建のためのイベントあるいは活動という見方ができる。
そこは神道として本来はどうかとか、そういう正しいかどうかはおらにとってはどうでもいいことなので、一貫性があると認める。

 
 
人に話してもなかなか理解してもらえないが、実際問題そういうことなんですよ。

私はウソつきが嫌いです。だからウソをつきません。これも一貫性の問題。
学生時代、掃除をサボりませんでした。掃除サボって迷惑掛ける人が嫌いだからです。

そして、イイかどうかは自分で決めるんです。
そのイイは自分のイイであって、他人のイイとは違っても不思議ではないし、かと言って自分のイイを否定されたくないから、他の人のイイ自体は否定しないんです。攻撃してこないかぎりね。

好戦的と思われがちですが、自分から攻めることはまずありません。面倒くさいし。
のんべんだらりと生きたいんです。
のんべんだらりと生きていても真面目に注力して全能力を費やして当たらねばならぬことも人生にはあるんです。
だからこそそれ以外はのんべんだらりと生きたいんです。
でも無抵抗主義ではないので、噛まれたら咬み返します。
すると自称普通の人はこんなこと言うんですよ。
「悪気はないのにどうしてこんな酷いことするの?」
ってね。
それは『悪気はなくとも酷いことされるぐらい酷いことを先にそちらがしてきたから』なんです。

ネットの世界は玉石混交です。
ハッキリ言いますが、悪人は善人の顔してやってきます。善人は善人面とは限りません。悪人面しているものの多くは悪ぶってるだけです。
だからおらは、本当は悪魔はみんな美形で、天使はブサイクなんじゃないかと思ってます。いやマジで。
んでそんな美醜も善悪も置いといて、おらが信用するとしたら一貫性のある悪魔もしくは天使だと思っています。不良や不悪は信用できません。

人は意外に高性能で、思っている以上にチープで陳腐です。
脳は高性能で、訓練でもしないかぎりは本人の意思と関係なく本音を吐露しちゃいます。本人の意志も気付いていないことも脳は知っているんです。
でも人はそういう脳の高性能ぶりに気付かず、記憶や経験則に縛られています。非常にチープで陳腐です。

今の時代は、神様がいてもいなくても同じです。
困った人の前に現れて奇跡を起こしてはくれないからです。
それは神様がいないからなのか、あるいはいても放任主義なのかは存じませんが、いずれにしても人が自らどうにかするしかないわけです。
でも祈りやらは必要です。それは弱くてチープで陳腐な人を強くする可能性があるからです。
ところが困ったことに、人はチープで陳腐ですのでって何度も言っていると気持ち悪くなってくるなぁ…まぁ気にしない…ですので、記憶や経験則に引っ張られ、そしてさらに困ったことに、多くの人は思考の末に答えを見つけるでなく、答えに向けて思考をツギハギするもんだから、割りと意外にむしろ当然に自己流は上手く行かないことが多いです。
だからそれへの誘導装置、理想装置、あるいは気付き装置として、歴史に裏付けされた形が必要となります。人は自分だけでは神に祈ることすら難しいんです。

そこで私は思うんです。
自分の考えよりも経験よりも、客観的な事実のみを並べ連ねることもまた、同様の装置となりうるのではないかと?
その為には自己否定と自身の打破を基礎として、誰よりも自分を信じずに客観視する必要があります。
でもどうやって?
何を事実の判断基準とするの?
それが一貫性です。

矛盾があれば、当然自分に穴があるんです。
自分が気に入らないコメントが付くならば、それは自分に穴があるからです。
それは一貫性がないことの現れです。

まだまだ足りません。
元々のおらの文章は長文ではなく詩に帰結するような短いもので、それを伝えようとセンスもないくせに言葉を重ねるのだから上手く行かないのも当然なのかも知れません。
でも伝えたいならそのように向かわねば、一貫性は損なわれます。
それが恐ろしくて、周りのことにも一貫性ばかりが目につきます。

だから善悪よりも一貫性が気になります。
なかなか分かってはもらえないのですが…

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