表記の問題ではなく意識の問題よね
私の子供は養護学校に通っています。
でも「障害者」の『害』に不快感を覚えたことはないです。
表記とか文字とかをさ、細かく分断して判断すればそりゃ如何様にも受け取れるさ。
でも実際に不快感を覚える時には言葉自体にどうこうではなく、近しい人に障害者等がいない人の認識があまりに浅く愚かしいにも関わらず、あまりにもそういう人たちが多いが為に結果的に数の論理で間違った認識の方が一般論的に思われかねない部分にこそ違和感や不快感を覚えるのであって、言葉自体がどうこうってのは少し違うと思う。
まぁそれでも不快感を覚える人がいるからにはある程度の配慮は必要なのでしょうが、まずはそういう『健常者を自負する人々』への周知を目的とした勉強の機会を設けることなどを先にすべきではないかな、と当事者の一人としては思います。
あとここからはこのブログを見ていないだろう遭えないあの人へ。他の人は見ても面白くもなんともないです。
基より不公平に生まれているんだよ、人ももちろん。
だからその子が健常者の枠組みに入れてもらえなくても、そこまで気にしなくてもいいんだよ。
「りうかの子はまだマシだから」と言うけれど、でも貴方の子供は貴方の子供、それは比べるべきことではないよ。
そりゃ比べれば優劣は作られてしまうのだけれども、もともと人は同じではなく個性という違う形をもっているだけであり、それに優劣を良し悪しをつけているのは人の心でしかないんだよ。
だからもしまだそのことを罪だと想い自分を呪っているのであれば、誰かまだ遭える人が教えてあげて、
私に出来ぬことを貴方はかなえたのだから、
不安に怯えるよりもその子のしていることを見てあげて欲しい、
そしてできるだけ一緒にいて見守っていて欲しい。
貴方は貴方が思う以上に私にとって大切な大事な人だから、あまりそんなに自分を責めないであげて下さい。
それをされたら貴方の為に消えることを受け入れた私は意味を失ってしまうから、
せめて自らを呪ってその子の意味を見失うことだけはしないで欲しい。
ちゃんと約束どおりに墓場に持ち込むから、私を消した意味を無くさないで。