批判されるべきは東電でも、その電気を使っていたのは私たち自身
チューリップ 最後のまつり(六ケ所村)(asahi.com5/7)
リンク先記事に、長年六ヶ所村で「チューリップまつり」を行なってきた方の言葉が載ってはる。
この方は1986年のチェルノブイリ原発事故に衝撃を受けて90年に六ヶ所村に帰郷、原子力以外の産業をと93年に農場「花とハーブの里」を開いてチューリップまつりを始めたんだそうな。
詳細はリンク先記事を参照下さい。
私には次の部分がとても強く心に響きました。
「東電は批判されるべきだが、電気を使い放題してきた自分たちの責任も自覚すべきだ」
「原子力の是非も大事だが、生活の仕方そのものを見つめ直す機会だ」
おいらも同じように思っています。
現在電力の約3割を原子力でまかなっている状態ですが、その電気を使っていたのは私たち自身です。ちょいと極論すれば、原燃反対の人は自分の家の消費電力を30%減らしてから言え、とも思うぐらいでね。
だからこそ私はかなり早い段階から電球型蛍光灯なども導入してきましたし(近頃は100円店で買えるからうれしいのです)、LED電球についても大きな物は高くて手を出せなかったにしても、入手しやすいLEDナツメ球なんかは積極的に使ってきたわけです。まぁ30%減には遠く及ばないんだけどね…うちには水槽とPCという電力食いがおりまして…
それでもね、無駄を省くこと、その為の選択をすること自体は、少なくとも10年前からは出来たはずなんですよね。
だからまずは自分たちの生活の上での選択から変えることだとおらは思うわけです。
その上で、原発などについての正しい知識も必要です。
原発推進派は今までも、括弧書き付きでこんなことを言っていたんですよ。
「原子力発電所は(発電時だけを考えれば)クリーンで、(想定外の事故が起こらない限りは)安全です。」
ってね。
けして声に出さないこの括弧書きですが、正しい知識を持っていればこういう意味が含まれていることは気付くはずなんですよ。クリーン云々はたしかにCO2は発電時には出さないけれど、後々の処分のためには莫大なエネルギーと膨大な資材を投入して行わねばならないわけで、そこまで考えたら他の発電よりもクリーンなんて間違っても言えないはず。
だからさりげなくこんなこと言ってるでしょ。
「原子力は発電時にCO2を出さないクリーンな発電です」
って。
発電時には出さないが、それ以外で出さないとは言っていないし、CO2以外についても言及していないんです。
んで事故の想定も結局は過去というか近年のデータベースでやっているし、通常の範囲内での想定しかないので、それを超えた事故(今回の津波とかね)だと安全かどうかは分からない、って話。
ただこれで、安易に「原発全廃だ」というのは何の解決にもならない。
何故なら今後未来には脱原発を目指すにしても、それまでの間には原発無しは考えられないからです。
だからこそ正しい理解が必要なわけです。
原子力発電は、トータルコストで言えば他の発電よりも高くつく可能性は高いし、事故が起きた場合のリスクは他の発電の比ではないぐらいに膨大だし、作業員が被ばくしちゃう可能性が平時でもあるし緊急時にはそれが急上昇しちゃうけれども、使用済み核燃料を再処理すれば1000年ぐらいは余裕で電気をまかえるかも知れないよ! 超大量に放射性廃棄物が出てきちゃうし、その処分場所すら決まっていなくって、とりあえず六ヶ所村に押し付ける感じになっちゃうけどね。
↑ハイ、これが正しい認識…ではないなぁ…かなりおら好みの味付けがしてあるなぁ…まぁでもよくある原発推進派や、何でもかんでも否定する原発反対派よりは的を得ていると思いますよ、いやホントに(=ω=。
うちらに出来る脱原発の為の方法はね、実は地味で一見無力に思えるようなことばかりなのよ。
家で使う電化製品の使い方、あるいは交換パーツの選択などでの省エネがまず1つ。
選挙に行くことが2つ目、もし投票したい人がいないなら、絶対に入れたくない人以外という消去法でも良いと思う。
3つ目は、正しい知識を持ち、それを理解し、情報に踊らされないこと。
この3つです。
当たり前に自分に出来ることをすること、まずはそこからです。
推進派にも反対派にも共通する、甘美な言葉や過激な表現だけの部分抽出アピールはいらんのです。
良い部分も悪い部分もどっちも大事で、どちらかだけを強調するのはやめて欲しいのです。
その上で自分なら何を選択するか、という当たり前のことを大事にして欲しいなと思っておりますですはい。