いつかみた風景

燃料不足により、八戸では車が少ない状態が続いております。
お店には空の棚が目立ち、コンビニなどでは商品が陳列されていない棚の方が多いような状態です。

でも私は、その風景に不思議と懐かしいものを覚えました。
それは子供の頃の風景です。

私がまだ小学生の頃、もう四半世紀も前ですが、あの頃は車を持っていない家庭が珍しくはなかった。
あっても一家に1台、道路は今よりも細かったけれども、スピードを上げて走る車は少なく、道路の横断も容易かった。
みんな歩いたり自転車を使ったり、バスなどで移動していた。
今の状況は何故かあの頃の道路と重なって見える。

あの頃はコンビニも無く、大型のスーパーも少なく、どの地域にも小さな商店が存在した。
1日1回パンや弁当屋惣菜が入ってきて、モノがたくさんあるとは言えなかったけれど、それでも暮らしていくには十分だった。
今時のコンビニは便利だったけれども、今はあの頃よりも品物が存在していない。

いかに多くのエネルギーに支えられて贅沢になっていたのかと、今更ながら思い知る。
しかもそのエネルギーの多くは人類が作り出したものではなく、長い時間の末に存在しているモノを搾取しているだけなのだということに、改めて想いを巡らす。

今観ている風景は私の子供の頃に見ていた風景と似ていると同時に、近い未来に起こり得る風景なのではないだろうか?

 
原発反対派の人が声を大にする。
「だから原発は作っちゃいけないんだ!」
でも問題はそこだろうか?
裕福な生活を支えるために膨大に消費されるエネルギー、それをあがなうために多くの人がリスクを承知で認めてきた部分はないだろうか?
あるいはそれ以外に長期間可動可能なエネルギーをまだ見つけられていないという事実、それを無視してもいいのだろうか?
少なくとも大量の電力を消費して暮らしている人たちは、安易に批判出来ないのではないだろうか?

エコやリサイクルを唱える人が声を上げる。
「今こそ節電しよう。LED電球にすれば電力消費を抑えられる」
でもそれは本当だろうか?
たしかに白熱電球よりも消費電力は抑えられる。でもLED電球を作るためにも電力は要る。
LED電球の性質上広範囲を照らすのは苦手だし、まだ使える電球をLEDにして捨てるのであれば、それは無駄でしかない。
省エネは必要だけれども、何でも使い回せばいいとは限らない。リサイクルした紙やプラスチックは割高だし、核燃料をリサイクルすれば大量の核のゴミが発生し、大気と海に微量なプルトニウムが流される。
適材適所ではないけれど、大事なのは適時更新で切り替えるという選擇肢を明示すること、そしてそれらのメリット・デメリットを知った上で何を選ぶかということではないだろうか?

車を運転する人が列を成す。
「子供の送り迎えに使うから満タンにしておかないと不安だ」
でもそれは、本当にリスクがある上での不安だろうか?
中には本当に必要な人もいるだろう。でも市街地で暮らす人は、半分のガソリンでも足りるケースはあるのではないだろうか?
可能な人が最低限の給油で我慢すれば、それだけ早く多くの人にガソリンが回るはず。可能な範囲で車の使用を控えれば、使わない分だけ給油回数が減ってそれだけ早くガソリンが安定供給となるはず。
今必要なのは、自分のライフスタイルで移動手段が自動車しか選擇肢がないのかどうかを見極めることではないだろうか?

いずれ石油は枯渇する。10年先か100年先かは分からないけれども、それよりはるかに長い時間を掛けて出来たものが、数百年という僅かな期間に使い尽くされる。
原発もいずれはゴミとなる、永遠には動かない。大量の核のゴミの処分のためには大量のエネルギーが使われる。その時どうしても他の資源も使われる。

ケータイだって電気がなければただのプラスチックの塊だ。
電子書籍は紙の節約にはなっても、電気を使わねば動かない。

人はまだ消費者でしか無く、自らエネルギーを生み出すには至っていないのだ。

近い未来、またこのような風景を見るのかも知れない。
そのいつかみた風景を思い出さないためには、まだまだ人は努力するしかないように思えてならない。

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