「子猫殺し」に思う、「飼い主が背負う責任」と「飼い主としての責任の取り方」
「子猫殺し」に抗議相次ぐ 坂東真砂子さんのエッセー(Web東奥8/24)
女流作家「子猫殺し」 ネット上で騒然(livedoorニュース8/21)
猫殺し作家の屁理屈(きっこのブログ8/21)
恥ずかしながら、今日のWeb東奥の記事でこの件を知りました。
そしてきっこのブログさんの記事にて件の坂東真砂子さんが日本経済新聞に書いたエッセイなるものの全文を拝見しました。
個人的な意見を言わせてもらうと、この坂東真砂子さんとやらはある種の飼い主としての責任を背負おうとしている、ということは言えると思う。
ただその責任の取り方についてはひどく思い違いをしているのではないか、としか思えないというのが本音だ。
犬や猫を愛する人たちにはショックであろうが、子犬や子猫の殺処分自体は日本でも昔から行われてきたさして珍しくない行為だったりする。
私も叔父などから「子供達が猫を拾ってきたが子供が生まれてしまい、飼う事も逃がす事もできないので袋に入れて壁に叩きつけて殺した」ということを何度か聞いた事がある。その話しぶりがとても悲しそうだった事をよく憶えている。
ハッキリ言うが、人に他の生き物の命を奪う権利など基本的にはないと思う。
ただし、命を繋げるために他者の命を奪う事(肉食)は否定しないし、また自らを守るために命を奪う事(疾病等の予防や害獣駆逐等)も否定はしないが、それでも生き物はそれぞれ懸命に生きていき子孫を残そうとしていくことが望ましいと思う。
だから無暗に猫を殺すこと自体には反対だ。
ただペットとして飼育している生体についてでいうならば少し考えが違えてくる。
飼育生物は人間が生殺与奪権を握り、その飼育生体の及ぼす影響について責任を背負い、繁殖や場合によっては殺処分まで含めて飼育管理する必要があると考えるからだ。
人によってペットがなんであるか考えは違ってくると思う。
問題となったエッセイを書いた坂東真砂子さんのように『獣』として考える人もいれば、多くのペット飼育者のように『家族』として考えている人もおることだろう。
しかし私にとってのペット(=飼育生物)とはどちらとも合致はしない。
ペットとは人間ではない『獣』でありながら、その存在は人間のエゴにより自然から切り離されたモノであり完全なる野生の獣ではありえず、また『家族』のように存在しながらも結果的には飼い主に生殺与奪権を握られている立場の存在でもある、言うなれば人間のエゴにより自然より切り取られた哀しい存在がペットであると思うからだ。
悲しい事だが、一部の生き物については既に日本の法律で繁殖しない状態での飼育もしくは生まれてきた個体の殺処分が決められている。
俗に言う『特定外来生物』のことだ。
無計画な放流や一部の心無い無責任な飼育者による密放流などにより、日本の自然や生態系、そして人間社会に大きく影響を与える危険性のある生物が『特定外来生物』として指定され、『飼育』『繁殖』『販売』『移送』などが厳しく制限されているのだ。
私自身も特定外来生物に指定されている「カダヤシ」を飼育しており、申請をしているところだ(足らぬ部分があり再申請せねばならないが)。
当然ではあるが、「繁殖を防ぐ体制」もしくは「生まれてきた稚魚の殺処分」を求められている。
ある種異常にも思えるだろうが、それぐらい外来生物を野外に放流することは危険なことなのだ。
話を戻そう。
猫などについても、飼育する以上はその繁殖等にも飼い主は責任をもつ必要があると思う。
子供を産んでも飼えない場合は交尾できない環境を作り出すか去勢することも責任の取り方の1つであるし、仮に妊娠出産に至った場合には引き取り手を探すか何とか飼育をする、そして最悪の場合には殺処分をすることが飼育者としては当然背負う責任だと思う。
そういう意味では、殺処分という方法自体は飼い主の責任を果す手段の1つである、ということは言えなくもない。
だから私は『子殺し』自体には哀しみを憶えるが、ある種の理解を示せる部分も存在しており一概には批難する気にはなれない。
しかし今回の坂東真砂子さんの方法には酷く違和感と不快感を覚える。
できることを尽くさず、自身の勝手な理屈を正当化しようとしているように感じるからだ。
坂東真砂子さんは件のエッセイにて、「避妊については否定しないが避妊も子殺しも同義、それならば避妊=殺しという厭なことに手を染めずにすむ行為ではなく、自分の育ててきた猫の「生」の充実と社会に対する責任として子殺しを選択した」、というようなことを書いている。
たしかに『避妊』は直接飼い主が手を下さず(その手で手術をせず)に済む行為である。またそれに近いものに殺したという実感を伴わない保健所へ引き取ってもらうという行為もある。
殺している実感のない選択により「命を絶やしている」ということを感じなくなることはたしかに怖いことだし、飼育者には「命を殺しているのだ」という実感を感じていて欲しいとおらも思っている。
ただそれは、命に対する責任を背負っていると認識することが重要であり、わざわざ妊娠出産させた上で子殺しをする必要はない、悲劇を増加させる必要はないのだ。
そして坂東真砂子さんは大きな思い違いをしているのだと思う。
『避妊』をしないこと、それは同時に『出産』の可能性を残すことであり、『出産』をするということは、その命を子に孫にと伝えるということのはず。
『出産』させた上で『子殺し』をする、それは「交尾させて出産までさせてあげた」というエゴでしかなく、同時に無駄な命の浪費でしかないのだ。
またそれ以前に、イエネコは野生の『獣』などではないという理解も必要だろう。
愛玩動物の中には人間社会に適応し、あるいは人間に品種改良され、もはや野生の『獣』ではなくなっている動物が存在する。
人間との共生を選んだ『犬』や『イエネコ』、突然変異や改良により生まれた『文鳥』『フェレット』「金魚」などがそれです。
これらは野生生物とは異なります、既に人間との共生関係が存在し、一部には自然界では生存できない種まで存在しています。
これらは人間のエゴによって生まれた存在であり、同時に人間の元で生存できている存在でもある。
それを野生生物に自由を与えるかのように語るのは正に人間のエゴ以外の何物でもないのだ。
坂東真砂子さんのエッセイを読む限りでは、その行動は飼育者の責任を曲解した殺戮の連鎖でしかないと思える。
坂東真砂子さんは飼育者の責任をどの程度理解した上でエッセイを公開したのか、甚だ疑問に感じる。
ただわずかながら坂東真砂子さんの言い分にも正しいことは含まれている。
それは飼育者は飼育生物を最後まで飼い切らねばならない、ということだ。
その責任を果す為に坂東真砂子さんがした行動が正しいとは思わないが、少なくとも安易に生き物を捨てるような人間には坂東真砂子さんを否定する権利もないのだと思う。
残念ながら巷には『自称動物愛護家』を名乗る密放流者が溢れているのだから…